よぱらい

そんなかんじで徐々にこんとんとしてきまsたすずむsです。
ちょっとまて打ててない文字打ててないよすずむし。そろそろねるかなー、しやわせなきぶんでねるよー。いまコップにはいってるずぶろっかがなくなたらねる。
こうやってひとりでよぱらってだらだらと言葉をつむぐのはすきだ。しつこいよ!ておもうかもしんあいけど、すずむし普段あんましゃべんないんだぜ。なんかさ音にするのとちがくない?文字にするのと。文字にして一度外に出してそれを改めてとりこむのがすきだったりするのかな。耳で聞く言葉と目で見る言葉と印象ちがう、たぶんすうzむし目で見る言葉をすき。だからほんもすきなのだろう。目が読む、耳が聴く。
おんがくにことば、なくてもいいとおもったりもする。もちろnすてきな詞もある、でもおんがくというものに、ことばはひつようなくもおもう、伝えたいのはことばじゃなくて、そのおとのせかい。
すくなくとも、わたしは。おとでメロディでみせたいせかいがある、その補足として存在する、詞、とおもっている、たぶんだけど。たぶんでもそう。だ。
詞のないおんがく、詞のりかいでいないおんがく、ききとれないおんがく、翻訳できないおんがく、
ことばで何かをつたえるなんて。とおまわりだ、そして誤解をうむ、その誤解をこそとおもったりもする、のだが。
たとえばクラシックだったり、日本語でも英語でもないことばだったりするうた、おんがくを、聴こえてみえたものを、じぶんの感覚をたよりに理解する、という。りかい?そんなのは、個人にきえすることでしかない。じぶんのかんじたもの、それがすべてで、正解だ。ことばでげんていしてしまうのは、だからほんとうはあまりすきではないのかもしれない。
私はわたしのみせたいせかいをことばにたくす、それ以上にきっとおんがくに託す。伝わっているかどうかはわからないし、つたえようとした、ところで終わるのかもしれない、そのせかいは。あとは、受け取る側のせかいだ。
ずぶろっかもおわってしまった、だから今日はもうねるね、おやすみ、世界、だいすきだ。またね。